2006年11月29日

日本国の政治家・官僚は黒田如水の如くあれ!

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カイロ宣言(1943・11・27)

 第二次大戦連合国側のルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石主席の米英中首脳がカイロで会談。この日、日本に対して無条件降伏を要求するなどの方針を決めた文書に署名した。
(産経新聞 11/27)


産経新聞への要請ー「カイロ宣言不存在」をおおやけに

               台湾研究フォーラム会長 永山英樹
産経新聞(11月27日付)は「20世紀のきょう」の欄で、昭和18年11月27日の「カイロ宣言」を取り上げ、「第二次大戦連合国側のルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石主席の米英中首脳がカイロで会談。この日、日本に対して無条件降伏を要求するなどの方針を決めた文書に署名した」と解説しているが、ここには大きな間違いがある。この「文書」が所謂「カイロ宣言」だが、実際には三国首脳による署名は行われていないのである。
実は「署名された」との説明は今回の記事だけに限らず、多くの日本の書籍も行ってきたもので、「カイロ宣言」の説明文における決まり文句のようになっている。ではなぜそのような歴史誤認が定着してしまったのだろうか。これには「中国捏造宣伝」説がある。
戦後60余年経つ今日なお、さかんに「カイロ宣言」を持ち出す国と言えば、それは中国だ。「カイロ宣言」の文中には「日本は満洲、台湾、澎湖列島などを含む中国から盗取したすべての地域を中国に返還しなければならない」とあり、中国はこれを台湾領有権の法的根拠としているからだ。
終戦時の中国政権である蒋介石の国府は「カイロ宣言」を根拠に、台湾における日本軍の降服受け入れのついでに、台湾の領土組み入れを勝手に宣言し、今日なおこの島は、中華民国の国名を名乗っている。一方その後樹立された中共政権もやはり「カイロ宣言」を持ち出し、国共内戦で消滅した中華民国の継承国として、台湾の領有権を国際社会に向けて喧伝しているのだ。「カイロ宣言に基づき、日本は台湾を中国に返還した」と言うのがこれら中国人の主張である。
実際日本でも、こうした「台湾返還」説は常識になっており、学校の教科書にもそう書かれている。だがそれはすべて中国人の歴史改竄、法理捏造を受け入れたものに過ぎない。なぜなら「カイロ宣言」は、日本による中国への領土(台湾)割譲の条約などではなかったからである。日本が正式に台湾と言う領土を処分したのは昭和26年に調印のサンフランシスコ媾和条約によってであり、そこで日本は台湾に関する主権は放棄したものの、その新たな帰属先については、何の取り決めも行われなかったのである。それは国府自身も、翌年調印した日華平和条約で追認していることだ。
しかしこの法的事実を否定しない限り、国府は台湾を統治できなくなるし、中共も台湾を占領できなくなる。そこで「カイロ宣言」こそ、台湾の戦後の帰属先を決定した条約だと主張しなければならなくなった。だからこそそれを正式に署名された条約だと強調するのである。
だが「カイロ宣言」は、名こそ「宣言」と呼び、あたかも条約のような印象が持たれるが、実際には公表されたその文書には「声明」の二文字しか書かれておらず、言わば名無しの文書である。それだけ見ても、これが決して条約などではなかったことがわかるだろう。要するにそれは単なる三首脳の会談内容(対日戦略目標)を示すプレスリリースにしか過ぎなかったのだ(この「声明」が何ら法的効果を持たないことは、チャーチル自身が後年認めている)。だからもちろん、三首脳の署名もそこにはなかった。台湾の学者、沈建徳氏が数年前、アメリカ、イギリス、中華民国(台湾)の三国政府に、「カイロ宣言」なるものの署名入り原本の在り処を問い合わせたところ、署名はおろか、原本自体が存在していないことまで判明していた。
米英政府がこの「声明」に法的効果を認め、「台湾返還」が合法的に行われたと認めていたなら、サンフランシスコ媾和条約で、わざわざ日本に対し、すでに主権を失っている台湾を放棄させるようなことをさせるはずがない。
このような経緯があるから、上述の「中国捏造宣伝」説が浮上するわけだ。
「カイロ宣言」は当事国によって調印(署名)すらされていない代物であることは、「台湾は中国の一部」であるとする中国の主張を根底から覆すものであり、この事実は国際社会でも広く認識されなければならないだろう。
産経新聞には、誤った歴史記述を行った以上は、ぜひとも訂正記事を書いてほしい。そしてこれを機会に、中国人の宣伝によってもたらされた「常識」を打ち破ってもらいたいのだ。(18.11.27)

『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
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※投稿はこちらまで→ koe@formosa.ne.jp
(メールマガジン 「台湾の声」より引用)


戦後の日本はこの「カイロ宣言」をふまえた「ポツダム宣言」を受諾し、サンフランシスコ講和条約によって主権を回復し、今日に至っている。

自民党・民主党の議員はこの事実を金科玉条の如く、旧戦勝国(シナ・米国)に卑屈な態度を見せがちである。
そんな彼らに黒田如水の逸話をささげたい!

関ヶ原の戦いの後、帰郷した長政が「家康殿は私の手をとって功労を褒めてくれた」と自慢するのに対し、「その時お前のもう片方の手は何をしていた(=何故空いている手で家康を殺さなかったのか)」と言ったとされる。


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posted by @隼人正 at 00:49| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつもTB下さり、誠にありがとうございます。
関が原以後、隠居の身に戻った黒田如水は、大宰府の村舎に住み、まるで百姓の隠居のようにしてすごしたという。中途半端な欲を持つことの愚かさを如水は知っていました。この愚かさを中国も知ってもらいたいですが、バカは死ななきゃ直らない、中国と言う国は滅びないとわからないでしょうね。
如水は58歳まで生きたそうです。官兵衛の号は「如水」、水の如く。その号はどことなく竹中半兵衛を連想させます。私は佐々成正が好きでなんとなく、平沼氏を連想させますが彼には佐々成正になってほしくはありません。
Posted by kazu4502 at 2006年11月29日 15:08
「カイロ宣言」とは1944年11月に、カイロでルーズベルト・チャーチル・蒋介石が会談した内容を発表したプレスリリース用の文書のこと。署名した書類は存在しない。
一方、ポツダム宣言が発表されたのは、日本時間1945年7月27日。軍部は戦意高揚を図るために、政府に何らかの公式声明をせまった。そこで、鈴木(貫)首相が翌28日記者会見して、「あの宣言はカイロ宣言の焼き直し。重視する要なきものと思う」といった程度のことを述べた。それが、戦後になって、首相が「黙殺したから広島・長崎への原爆投下を招いた」と喧伝されてしまった。鈴木は死ぬまで無念であったらしい。
ポツダム宣言はトルーマン一人のサインによるもの。発表当日チャーチルは本国にいた。蒋介石はポツダムに行ってもいない。重慶駐在の米大使が蒋に宣言内容を伝え、即答をせまった。蒋は、国名の順序を(米・英・支→米・支・英に)に変えることだけ注文してOKした。
仲晃氏は、「1999年5月、米国立公文書館を訪ね、手に取って眺めた。3枚目の最後のところに、トルーマンが一人三役を演じた書名が、大分色あせて残っている。(国名順序などの)修正箇所を強調するためイタリック体でタイプしたものが不揃いに残っている。」と書いている。

「カイロ宣言」がその程度のものであることを鈴木は知っていた。しかし、鈴木の発言は戦後間もなく、捻じ曲げられて伝わった。私は、終戦直後に早くも進歩的文化人が活躍し始めたのだと思っている。
カイロはルーズベルトの独断。急死の後を受けたトルーマンも別の意味で独断専行した。しかも国内では、進歩的文化人が…余りにも不幸が重なった
Posted by 平成退屈男 at 2006年11月29日 22:50
お詫び。
「一人三役を演じた書名」とあるのは「署名」の間違いです。
Posted by 平成退屈男 at 2006年11月29日 22:54
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