2006年10月17日

ラストエンペラーの真実

中国】【今日は何の日?】1967年:清朝最後の皇帝、溥儀が死去

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1967年10月17日、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が病気のため亡くなった。 <サーチナ&CNSPHOTO>
 


 溥儀は1906年に光緒帝の弟の醇親王の子として生まれた。1908年11月に光緒帝と西太后が相次いで死去すると、2歳で清朝第12代の皇帝となった。年号を「宣統」としたので、「宣統帝」と呼ばれることが多い。

 しかし清朝は1911年に勃発した辛亥革命を抑えることができず、溥儀は1912年1月に退位。清朝は滅亡した。

 退位に当たっては「尊号は変えず諸外国の君主待遇を与え、当面紫禁城(皇宮)に居住する」という合意があった。紫禁城は皇帝が政務と儀式を取り行う「外朝」と皇帝の生活の場である「内廷」に分けられるが、溥儀とその一族は内廷での居住を許された。

 しかし溥儀は皇位復活の機会を待ち続けていた。1917年に北洋軍の将軍だった張勲が清朝の復活を宣言。溥儀は再び皇位に就いたが、清朝復活に反対する勢力が多く、清朝復活は挫折。溥儀は10日余りで再び退位した。

 1924年、溥儀は紫禁城を追われることになった。その後、天津市内に住んでいた溥儀に目をつけたのが日本の関東軍だ。関東軍は中国からの満洲切り離しを画策。そのために、軍事的に制圧した後に「独立」させようという計画だった。

 満洲は愛新覚羅家にとって父祖の地だ。溥儀に君臨させれば、「旧来の領地を取り戻したまでだ」というロジックが成り立つ。その後は傀儡としてコントロールすればよい。一方、溥儀にとっては、支配者の地位を再び獲得すれば、「末代皇帝(ラスト・エンペラー)」という汚名に甘んじずにすむ。ここに、日本側と溥儀の思惑が一致した。

 関東軍が行動を開始したのが1931年9月18日。自作自演の鉄道爆破を中国側のテロだとして、満洲全体の制圧に乗り出した。一方、特務機関は11月10日に溥儀を天津から脱出させた。

 溥儀は1932年3月1日の満洲国成立と同時に執政に就任。1934年3月1日には皇帝となる。しかし1945年、日本の敗戦に伴い日本に逃亡しようとしたがソ連軍に捕らえられ東京裁判に出廷した。

 1950年、戦犯として中国に身柄を引き渡され撫順収容所に収容されたが、1959年に特赦により出所。その後は一市民として過ごした。1964年には政治協商会議全国委員に選出されている。写真は李淑賢夫人と共に1960年代に撮影されたもの。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)


(サーチナ・中国情報局) - 10月17日6時0分更新



R・F・ジョンストンは「ラストエンペラー」宣統帝 溥儀 の家庭教師として彼の一番身近にいた人物です。彼の著作で「紫禁城の黄昏」があります。(原著は戦前にイギリスで出版されているものです。)
これの完訳版が下記の2冊です。
これ以前に日本では岩波書店から出版されていたそうなのですが「意図的に」内容が省略されているそうです。

この完訳版「紫禁城の黄昏」には「その後、天津市内に住んでいた溥儀に目をつけたのが日本の関東軍だ。」というのが間違いであることが分かります。
彼自身の意思で天津の日本領事館に助けを求めているのです。

戦後の歴史認識がいかに「中共」「ソ連」よりであったことが、ますます認識されます。





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posted by @隼人正 at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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